Albert Charles du Bousquet

Une promenade de l'histoire

子孫から見たアルベール シャルル デュブスケ



自己紹介

自分の写真
はじめまして。 私は、幕末にフランス軍事顧問団で 派遣されたAlbert Charles du Bousquetの曾孫で林 邦宏と申します。 du Bousquetの日本での活動をまとめ上げようとライフワークで取り組んでいます。

2019年6月10日月曜日

帰らなかったフランス人 3


アルベール・シャルル・デュブスケの子供と孫

長女 キャロリーン (Caroline Marie 1868.11.26-1957.4.9) 
10歳で弟のエリーと一緒に渡仏し教育を受け、24歳で歯科医ステイベル(Théophile Joseph Léger Steibel)と結婚し4人の子供を授かり、1957年パリで死去した。88

Caroline Marie

アルベールの父の妹 Esther du Bousquetが所持していた祈祷書を渡仏間も無いキャロリーンに与えた。生涯大切にしていた。
私が渡仏時、この祈祷書をRolandeから頂いた。




キャロリーン長男LudovieGastonThéophileSteibel美術製本職人の娘ローランドは宝石彫師Alphonse Payonneと結婚

   Rolande(1927.6.1- 2015.2.19) 

                  
 長女Sylvieデザイナー (1955.6.9- )


次男Franck Payonne

      劇団俳優1961.6.24-2017.4.11 現存している旧ステイベル家
  キャロリーン、マルガリット、クリスティーヌが眠るステイベル家の墓


キャロリーンの次女マルガリット

Alexandrine Marguerite Bartoliバルトーリ夫人
Marguerite(1897.11.17-1989.3.1)

長女クリスティーヌ(Christinne1938.4.26-1965.4.4)


1871年明治421日長男シャルル・エリー(Chales Elie)が東京で生まれる。フランスで教育を受けるため8歳の時、姉キャロリーンと共に渡仏する。

1888719日長男エリーはパリで病死した。享年17歳であった。
祖父の眠るモンパルナスの墓に埋葬された。
               
Cimetiére Montparnasse(9eme.Division 12Sud 34Est)


二女マリー(Marie)1873年生まれるが生後まもなく死亡(9.11)

横浜山手外人墓地に埋葬された。
               
 Marieの墓
明治718741012日三女アリス(Henriette Alice)が東京で生まれる。
187571日洗礼を受けた。絵画の勉強のため渡仏したが、1899年パリのサンモール修道会la congregation de Saint-Maurの本院に入会、マダム サンタルベルとして1902年東京の修道院に戻り、1938年から静岡の修道院、1946年より田園調布修道院に赴任 雙葉会に従事し絵画、ピアノ、フランス語を教えていた。
1955923日帰天し府中カトリックSt.Maur修道会の墓地に埋葬された。
     
 Henriette Alice 1901 PARIS

Sœur Saint-Albert 1944 田園調布修道院



次男 アルベール・ジョルジュ (Albert-Georges )
兵役に就くと渡仏、再来日後、明治38910日より同3933日まで神戸高等商業学校でフランス語の講師をしていた記録がある。その後英国スペイン銀行勤務し、1945年天津で死亡。68
同名の長男はサンテ刑務所行政官吏長で1983年死亡
マルセイユのGéraldの祖父にあたる。
       
Albert-Georges (1877.3.23-1945.7.27)

Albert-Georges  (1903.8.2-1983.2.17)
René Jean-Claud Gérald


2017613日 ジェラール マルセイユで亡くなる。
彼とは長年手紙のやり取りをしていた。
フランスでの一族の調査は彼が熱心に調べていた。
我がdu Bousquet一族の系図の作成も彼無しでは完成しなかった。
マルセイユに行った時、少し健康を害していたが会えて良かった。


三男 シャルル (Charles Arthur 1880.12.31-1918.11.27)
 
 
  1907年(明治40年)27歳の時、「治部輔 治信」で帰化願い 

その後、林 治信に改名

 1910年(明治43年)小幡藩華族松平忠禎の長女 金子と結婚 



Kaneko
      
Sasako
                                                                                      Masaharu
 
  Masanobu

他の兄姉が皆渡仏し、母のハナはシャルルだけは手放さなかった。

シャルルは1907年帰化し林 治信と名乗った。

因みにフランス語でbousquetに似たbosquetが小さな林や木立を表しており、そこから引用したと思われるが、林 正十郎という人物が幕末にフランス語を学び幕府がフランス軍事顧問団を招くと規則書の翻訳を任され、戊辰戦争後、尾張藩の保護の下、迎曦塾を開設し元軍事顧問団デュブスケを教師として雇って子弟関係になり仲良くしていたとも聞いており、そこからも林という姓にしたと思う。

シャルルは、横浜で海星商会を経営し貨物船2隻を所有していた。林式集魚機を発明し特許を得た。
その後、陸軍砲工学校や第一高等学校でフランス語講師をし、日仏会話やフランス語独修書を編纂、バイオリンも弾き多才な人であった。


さぞかし渡仏したかったと思われるが、感冒により191838歳の若さで亡くなった。
若しも健康であったならば、フランスに行く機会もあり兄姉の家族、親戚にも会い、また違った方向に行っていたかも知れない。


シャルル治信の著書
       「実用日仏会話」1915 
                          
        「初等仏蘭西語独修書」1918


 訃報

 治信墓(青山墓地)



あとがき

幕末・明治初期の日本はフランスから多くを学んだ。
鳥羽・伏見の戦いの後、明治新政府は東北動乱と財政上の関係からフランス軍事教官団の廃止を決定、慶応4728日教官団は解散帰国するがデュブスケのみはフランス公使館付通弁官(第1等通訳官)として在留し、明治初年の日仏外交史上重要な役割を演ずる。来日以来わずか2年足らずで日本語をよくし、単に軍人としてのみならず、外交官として同時に活躍できる才識の持主であった。
兵部省の兵式顧問となり、その後フランス公使館を離れ左院のお雇い外国人として正式に日本政府に出仕した。
29歳で来日し三男三女の子をもうけ、明治15年まで新生日本のために尽力した。
明治4年、普仏戦争でフランスが敗北したが、太政官布告で軍制を陸軍はフランス式、海軍はイギリス式にした。
デュブスケが亡くなった翌年、明治16年日本陸軍はドイツ式を採用し参謀少佐メッケルを陸軍大学校教官として招聘した。
日清、日露の両戦争に勝利したメッケルの功績は大きいが、やがて国際的視点の欠如した軍部が独走し日華事変、大東亜戦争までその影響は続いた。

明治33年の「偕行社記事」には、次のように書かれている。
「日本軍は編成と訓練に関しては今日ドイツ軍の完全なる模型なり。しかしこの日本陸軍について当然名誉を受くべきは、ドイツよりむしろフランスであることを忘れるべからず。」

軍国主義のドイツ式を採用していなかったら、当時の陸軍、日本も違う方向を維持し歴史も変わっていたに違いない。
つまり、それはデュブスケが建議した文民優位(シビリアンコントロール)の原則に他ならない。

おわりに

アルベール・シャルル・デュブスケの活動を調査するにあたって、
大阪大学名誉教授、文学博士 梅渓 昇氏はじめ日仏会館図書室司書 清水裕子氏の紹介で横浜国立大学名誉教授 日仏文化交流史の研究家 西堀 昭氏に直接お会いすることが出来て貴重な資料や多くの文献を頂き、名古屋大学名誉教授 南山大学外国学部教授 法制史家の大久保泰甫氏からも資料初めアドバイスを頂き、曾孫として知る限りのことをまとめ上げる事が出来て心から感謝致します。


   梅渓 昇先生(92才)宅訪問(東京 小金井市)( le 27 Oct.2013 )

   2016218日 肺炎のため亡くなられた。95


西堀 昭先生宅訪問(横浜)( le 18 Mai 2011 )




参考文献

陸軍創設史 篠原宏 リブロート出版
幕末・明治日仏関係史 リチャード・シムズ著 矢田部厚彦訳 ミネルヴァ書房
流域 ある日本人妻と娘 梅渓昇著 青山社
お雇い外国人の研究 上・下 梅渓昇著 青史出版
フランス科学技術導入と富岡製糸場 西堀 昭著
維新とフランス 西野嘉章+クリスチャン・ポラック 東京大学出版会

  その他、多くの文献から引用させて頂きました。




5 件のコメント:

  1. NHKの「ヒストリア」を見て、このサイトにたどり着きました。すごいルーツ、ファミリーヒストリーがおありなのに、こちらのホームページが分かりづらいです。林さんがどういう方なのかもわかりません。きちんと整理したら、もっと多くの人に、歴史的事実が理解されると思われます。

    返信削除
    返信
    1. ご返事が遅くなりまして失礼しました。
      どうもありがとうございます。
      勉強します。

      削除
  2. 昨夜の「ふしぎ発見」を見て、私もこのサイトに辿り着きました。前者の方がおっしゃっているように、大変興味深い内容なので、もう少しわかりやすく見やすいHPを作っていただけたらと思います。どなたかプロの方、お力をお貸しいただければ、、、

    返信削除
  3. アドバイスをどうもありがとうございます。
    確かに、ダラダラと思いつくままに書き出していたブログです。
    HPというものを一から勉強し直してみたいと思います。
    途中、HPから離れ「帰らなかったフランス人」というテーマで私的な冊子を作り上げるのに時間がかかりました。
    今後は、真剣に考えてみたいと思います。
    ありがとうございました。

    返信削除
  4. 私は幕末維新を、西洋との遭遇をテーマとして調査研究し、現在出版を目指しています。そのなかで、フランス軍事顧問団は欠かせません。とくにデュ・ブスケの存在は極めて大きいものであります。第一次顧問団の一員として、幕府の陸軍教育に携わり、箱館戦争ではブリュネと密かに連絡し合い、維新では、明治政府が再び陸軍をフランスに要請する段階で、陸軍創建の建白書を提出し、さらにサイゴンの三人の元顧問団員を呼ぼ寄せ、再び、明治政府が本格的にフランス陸軍に協力を要請する時には、田島応親と協力して、フランス駐在のシャノワーヌやブリュネに人選を任せました。そこで、どうしてもお聞きしたいことがあります。第一次顧問団がパリを出発した時に撮影した写真のデュ・ブスケです。前列左から二番目とされていますが、私は左端の人ではないかと思っています。二番目はメスローではないでしょうか。身長はメスローが173センチ、デュ・ブスケは168センチです。2番目の人の方が身長が高いのではないかと思うからです。また、二人目の人は体も太目で顔もその後の写真と比べてあまり似ていないように思います。玄孫のあなたから見て、いかがでしょうか。なお、この写真はすでにご存じでしょうが、次のurlで見ることができます。
    https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8451486n/f31.item.r=VH%20282#
    出来ましたら、ご回答願います。
    現在、執筆中の本に掲載したいと思っています。
    宜しくお願いいたします。

    返信削除