Albert Charles du Bousquet

Une promenade de l'histoire

子孫から見たアルベール シャルル デュブスケ



自己紹介

自分の写真
はじめまして。 私は、幕末にフランス軍事顧問団で 派遣されたAlbert Charles du Bousquetの曾孫で林 邦宏と申します。 du Bousquetの日本での活動をまとめ上げようとライフワークで取り組んでいます。

2019年5月30日木曜日

帰らなかったフランス人 2


アルベールの晩年

しかし明治13年末ごろ「今や不幸にして不治の疾病に罹り垂死の厄に遭遇」という健康状態であった。
1218日、元老院議官賞勲局副総裁 大給 恒、元老院幹事細川潤次郎の連名をもって太政大臣あてに「比歳特別ノ御評議オ以テ積年我政府ニ勤労セシ廉オ以テ何卒慰問ノ御沙汰被成下候様仕度」との建言があり、外務卿井上薫よりも「特別ニ宮内省ヨリ慰問トシテ金千円程度下賜相成候方可然」しと意見上答の結果、明治1417日、閣議は政府より慰問金千円を贈ることに決定した。
しかし、外務大書記宮本小一より、ジュブスケ氏の身分が仏国官員であり、仏国政府の規則もあり受取り難く、また同氏の病状の性格、危篤の状況に鑑み、一旦右賜金返進の通知が内閣に提議された。

明治15年(1882618日午前1150分 アルベール 感冒をこじらせ麻布鳥居坂の自宅で死去。享年45歳だった。

葬儀は21日午前9時半築地天主堂(カトリック築地教会)で取り行われ、午後3時飯倉片町28番地を出棺し青山墓地に埋葬。出棺には親友イギリス外交官アーネスト・サトウ他3名が付き添った。

「陸軍鎮台兵一中隊の護衛にて青山の埋葬地に至り式の如く葬儀を終わりたり、葬送人は参議・外国公使をはじめ多人数の顕官紳士等にて実に盛なることなり、又元老院の副議長其他旧知の勅奉任官方より楽隊を供されたり。」と同月20日の「時事新報」記事にある。
623日、政府より遺族に対してお悔やみとして改めて金千円を贈与した。
青山墓地に国より埋葬され、明治216月元老院議官兼賞勲局副総裁大給 恒氏、元老院議官細川潤次郎氏によって墓標が建てられた。


             
    仏人治部輔氏墓表
元老院議官兼賞勲局副総裁大給恒書・元老院議官細川潤次郎撰

「(上略)朝廷新たに左院を置く。乃ち君(デュ・ブスケをさす)を聘して委するに弁考索洋の務めを佐け、翻訳の事を執るを以てす。(中略)憶うに朝政一新、外交大いに開け、官を置き法を設けるに方り、他国の制を講じ以て参酌に供せざる可からず。              乃ち余輩の如きは就いて君に質す。君、酬対審詳、伝訳を煩とせず。最も要旨を領略するに便なり。               
その事体稍重きものは、諸の本国諸書を考え口約してこれを筆録せしむ。意義明白、尋常の翻訳書の比に非ず。其の巳に編を成すもの、一百十六種の多きを有するに至る。盛んなると謂う可し。                     
(中略)君の和訳に精通するが如き、其の力習の労、亦た想い見る可し。已に又聞く、我、条約を改正するの議有るに方り、君頗る我邦の為に籌画する所有りと云う。
             (下略) (原漢文)



当時、ハナより親交のあった人々に宛てられた死去および葬儀通知状(明治15619消印)を掲げておく。本状の差出人は「マリー・ジュブスケ」とあり,宛先の猪子清は旧富岡藩大参事、当時参事院議官補である。
本書状はタテ書きの本文と宛先部分を半折し、さらにそれを三つに折って宛先部分のみの小封筒の形にして一銭切手を添付・郵送したものである。
「ジュブスケ義昨十八日午前第十一時五十分死去致シ候ニ付此段御知ラセ申上  候 但明後二十一日午前第九時半築地天主堂ニ於テ読経同午後第三時飯倉片町二八番地ヨリ出棺青山墓地ヘ埋葬致シ候事 六月一九日 マリー、ジュブスケ」と記されている。

             






    治部輔の墓  青山外人墓地 


マリーが寄贈した鐘 築地カトリック教会





ジブスケ袴

対日外交部文書の上において「仏国 治部輔」と記し、デュブスケがデザインしたジブスケ袴(タッツケ袴)と呼ばれる側線入りのフランス式軍袴を穿いていた。ジブスケ袴は有名な存在になっていた。
「兵部大輔大村益次郎は鳥居坂に通い、ジブスケから軍服のデザインを学んでいる。日本の軍服は大礼服から一兵卒にいたるまで、彼の提示したデザインが基礎となった。(スーツの法則 中島渉著より)

           
武器と防具 幕末編(新紀元社)より

    
         ジブスケ袴 image by Emest illustration



余談

「文芸春秋」第15巻第6号(昭和12年) 料理雑記 三田村鳶魚の「旧幕人の夜話」より
 一夜武内桂翁をお尋ねして、いろいろと昔話に花が咲いた時、翁の先代孫介氏の手録された料理雑記を見せられました。是はホントに珍書と申してよいでせう。
明治212月 治部助、此人は仏国の士官デューブスケ、幕府のお雇いから新政府に継続して築地におりました。そこでの御馳走
コンニャク 酒 オムレット(鶏卵焼)鱸炙、パン、ヴァン(葡萄酒)ビフ(焼牛)イグ(イチジク)バッテ(雉の肉菓子)菓子(ジャガタライモ、カステイラの粉、干しブドウ入り)
註解入りで書いてある。
翌、3227日のところにも
舶来イワシ、オムレット ビフテキパタート ハンヴァン シャンパン

武内孫介というのは紀州徳川家臣下で御作事奉行、デュブスケの媒人をするなど外人に親しかった。
彼はお雇い外国武官などと接触することが多く、明治411月より左院雇いとなったデュブスケの日本人書記として孫介が私的に雇われていた。
この記事によってデュブスケの媒酌人を始めて知った。

デュブスケは明治711月元老院時代より東京府第2大区7小区飯倉片町2丁目25番地平山成信方を住所としている。おそらく遡って左院時代から居留地外居住として平山成信方を住所としていたと思われる。
平山成信は明治3年静岡藩の留学生として横浜に赴き専心仏語を学習し洋行の機会を狙っていた。
明治4年に左院14出仕という役名でデュブスケの専属書記となる。明治6年渡欧し明治7年帰国。

明治11年仏国公使館勤務となるまで国内におり、その間結婚もしており居住地を平山方としたデュブスケとの関係は深かったと思われる。

我々の本籍地は、私が子供の頃まで東京都港区麻布飯倉片町になっていたが、現在は港区六本木5丁目に地名変更されている。
平山家跡を購入したか番地が違うので近くを新たに購入したと思われる。



Marie Anna Hana マリー・ジブスケ
(1850.7.71930.8.19)
明治2年、アルベールは茶会で出会った士族黒田平之丞の二女ハナと知り合い、見染めて事実上の結婚をしていたと思われる。
当時の時代背景から武士の娘でなく母方の伯父の医師田中熊次郎の養女となり田中ハナと名乗った。アルベール32歳、ハナ26
明治9427日にフランス、日本政府から正式に結婚を認められたと同時にカトリックの洗礼を受けマリー・アンナと名乗った。
6人の子供を授かり、アルベールの死後もシーボルトの子供や孫たちとの交流もあり、80歳の生涯を終えた。

 





   





帰らなかったフランス人 1


デュブスケ家(Du Bousquet

 du Bousquet は、当初はDu Bousquetと表記しDuは英国のSirを意味していたが、ルイ王朝が滅び立憲君主制が成立し封建的特権の廃棄により、その後はdu Bousquetと表記するようになった。

デュブスケ家は曾祖父アルベール(Albert Charles)から4代先までは遡ることが出来る。
初代(Charles Hyppolite DuBousquet)は不詳だが、2代目アルベールの曾祖父エドアルド(Edouard)はナポレオン・ボナパルトと行動を共にした騎馬隊将校で貴族でもあった。











これは、デュブスケ家の紋章
力の象徴であるオークの木に立ちあがる権力の象徴の獅子
エドアルドの兜に着けていた。

 祖父に当たる人はフランス陸軍病院長のミシェル・デュブスケ(Ambroise Michel)である。184875歳で亡くなっている。祖父の存命中1789714日フランス革命が起こり1799年ナポレオン皇帝誕生の激動の時代であった。


Ambroise Michel

1812年生まれの父は弁護士でありピアニストのグスタフ・アーノルド(Gustave Arnold)、母はキャロリーヌ・オルバン(Caroline Claire Orban)。 アルベールは6子の三男として1837325日、(天保8年)ベルギーのリエージュに生まれた。
母はベルギーの名家オルバン家の娘で伯父には首相になった人もいた。その母もアルベールが13歳の時、38歳で病没している。
父グスタフは親友リストとベルサイユ宮殿で共演した名ピアニストでもあった。187462歳で亡くなっている。

アルベールの兄弟は6人、生後まもなく亡くなった長男オズワルド(Oswald)、次男アルテュール・グスタフ(Arthur Gustave)銀行員、文学者と結婚した長女キャロリン・ルドヴィ (Caroline Ludovie)、4番目が3男のアルベール、4男の弟アンリ・カミユ(Henri Camille)彼はグルノーブルのジャンルイとその娘リディーの家系とパリのアニーファスターが家系になる。

5男になる弟のジャン・ガストン(Jean Gaston)はパリ北鉄道の技師で彼が設計した蒸気機関車のDUBOUSQUET号は有名である。

                    Locomotive Du Bousquet
 


サンシール陸軍士官学校
École Spéciale Militaire de Saint-Cyr

18歳になったアルベールはフランスに戻り、サンシール陸軍士官学校に入校。卒業後陸軍少尉となりアルジェリア戦争に参戦、186023歳で北京戦争 英仏連合軍の北京占領に従軍し帰国後陸軍中尉に昇進した。
1866(慶応2)29歳で歩兵連隊司令官となり歩兵第31号抜隊竜司令官に任命される。アラビア語、東洋語など7カ国語に精通していた。


幕府の事情

その頃の日本では、幕府が軍事教練依頼をイギリスとフランスに求めたがイギリスが乗り気でなく横須賀製鉄所や横浜フランス語学校の設立の過程からフランスへの接近が始まった。それは薩摩、長州の雄藩に対抗する力を高める必要が早急にあり第二次長州征伐を控えての幕府の焦燥感があった。また薩長に近づきつつあったイギリスに対する脅威感もあった。そのため、第14代将軍徳川家茂はフランス陸軍軍事顧問団派遣の要請をした。

それを受けてフランス公使のレオン・ロシュが陸軍大臣ランドンに宛てた派遣要請文がある。

「日本人は本質的に東洋の他国の人々と性格を異にしていますから、彼等に対しては、尊厳を込めた善意、正義感あふれる厳格さをもって臨むべきです。彼らの名誉心と誇りに訴えることのできる場合が多々あります。最下層の人々でさえ、まことに驚くべき礼節を弁えていますから、粗野な振舞いをすれば、たちまち彼らを遠ざけることにもなりかねません。理不尽な仕打ちに対しては激しい怒りを顕わにしますが、敬意を込めた扱いに対しても同じようにきわめて敏感です。ですから、この国では礼節の法が、拷問を受け死刑に処せられる罪人に対しても守られている、と言えなくもありません。しかも、かかる対面への執着はけっして卑屈さに陥ることなく、多くの日本人がここぞという時に見せる断固とした態度をいささかも揺るがせるものではありません。
明朗にして利発で、しかも話し好きな彼らの好意は当然のことながら他の国の人たちに対してより、われわれに向けられています。
それ故、この国において英国が物質面でどれだけ勢力を拡大しようとも、もしわれわれが日本人の自己変革への気概を鼓舞しさえすれば、彼らはわれわれだけにこの変革の助けを求めることになりましょう。
ですから重要なのは、日本の軍隊の教練に招集すべき士官と兵士を選ぶにあたっては、先に述べました通り、この興味深い人々の持つ誇り高い気質を斟酌できる者のみに絞るべきであると考えます。
これこそまさに、成功の必須条件であります。」

皇帝ナポレオン3世がシャノワンヌ大尉を団長とする15名の第1次軍事顧問団の将校としてアルベールには団長補佐として日本行を命じる。


                ル・モンド紙 ペン画

出発前、パリで撮影された15

    前列左端からデュブスケ中尉、メスロー中尉、中央シャヌワーヌ大尉
    ブリュネ中尉、デシャルム中尉、他下士官兵士10

将軍家茂は病没し、慶応2年(18669月末 徳川慶喜が徳川宗家を相続する。


フランス軍事顧問団派遣


一行は18661119日、マルセイユをメッサジュリー・アンぺリアル(帝国郵船)の郵便客船ラ・ペリューズ号に乗り出港、アレクサンドリアからスエズ間は列車で移動、スエズからは1127日カンボッジ号に乗り船中、アルベールは東アジアの歴史と地理を教え1カ月かけて1227日に香港に到着した。その地で補給と休暇を取り1867年(慶応3年)18日アルフェ号で出港し113日横浜に到着した。52日間の行程だった。
横浜に到着した時、ちょうどローズ提督下のフリゲート艦ラ・ゲリエールが停泊していて、同艦から海軍中尉ユマンがボートで迎え、一行の安着を祝したのだった。


開港時の横浜港大さん橋
 


                      現在の象の鼻パーク

その後、一行は上陸しフランス公使館に入り、ここで元神父、横浜フランス語学校校長メルメ・カションを始め館員の出迎えを受け晩餐会で歓迎された。




         甚行寺絵図 
 
                                        フランス公使館跡(現横浜市青木町甚行寺)


次の日、シャノワンヌ一行は太田村(現日ノ出町付近)の陣屋(兵営)に入った。大田陣屋は狭く、粗末であったがシャノワンヌ達は不平も言わず、歩、砲、騎の訓練を始めた。230名の兵士たちは日本刀を差していたり、わらじ履きだったり身分がどうのこうのでひどいものであったらしい。

太田陣屋は手狭で訓練も思うように行かず慶応35月中旬には江戸に移り神田小川町の講武所跡に入り、間もなく神田橋外の陸軍所内の仮教師館に移り顧問団はめざましい活躍をした。
歩兵教官長はメッスロー歩兵中尉、砲兵教官長はブリューネ中尉、騎兵教官長はデシャルム騎兵中尉、工兵教官長はジョルダン工兵大尉、デュ・ブスケ歩兵中尉は団長シャノワンヌ大尉の補佐として全般の指導にあたっていた。
専門は歩兵であるが、特に陸軍の制度、規則といった法規の面に詳しかった。

1014日倒幕の密勅が薩長両藩に下り、徳川慶喜は大政を奉還する。ここに至って顧問団も伝習隊もいや応なしに動乱に巻き込まれて行くことになる。

鳥羽・伏見戦争も幕府が負け、陸軍総裁 勝 海舟にシャノワンヌ一行が会談した。

その時のやり取りが著者名は忘れたが、ある文章を見つけたので書き移す。
シャノワンヌの顧問団と陸軍総裁 勝 海舟との会談。
「はじめまして団長のシャノワンヌです。貴方の風評は武者君から聞いています。お目にかかれて嬉しい」
襟を正すように会釈。というよりもお辞儀といって好いかもしれない。小男の勝とシャノワンヌでは大人と子供のように好対照。
勝も武者相手とは違い、これには端然として礼を返した。腰掛けるように勝が勧めたが空いた椅子が一つきり。足りない。後ろの士官たちを見やったらどうぞという風なのでシャノワンヌは腰を降ろした。
シャノワンヌはお茶を一口すすると切り出してきた。
「勝さん、我々の調練は終わっている。そして成果は私たちが思っている以上に十分なものです。すなわち伝習隊は日本最強の軍隊として既に熟練の域に達し士官、兵卒、皆勇猛果敢であること比類なく、我がフランス軍と遜色ないものに仕上がっているのだ。後はその成果を実戦によって見出すのみ、そしてその強兵を握っているのは陸軍総裁である勝さん、貴方だ。今こそ伝習隊の豪勇振りを示す時ではありませんか。戦えば勝つ、どうぞ意を決して抗戦に踏み切って下さい。我々もその時は貴方の指揮下に入り、戦うことを何ら厭わない。」
話し終えたシャノワンヌの眼差しは差すようなもの。武者と二人、決してもらわねばテコでも動かないという感じだ。
その後、顧問団皆で作成した戦いにあたっての戦闘手配書を差し出す。
「おや、手回しのいいことで、私はフランス語がとんといけませんが」
勝の返事に武者はそれでは私が聞かせてあげましょうかとしたところ、後ろからブリュネ中尉が「いや、武者君、これは私たちで伝えさせていただきたい」と制して、傍らのデュブスケ中尉に説明を依頼した。
デュブスケは顧問団の中では尤も日本語が使えた。
そのデュブスケが熱弁を振るう。
そして、それは官軍を迎え入れて海陸両面から挟撃するというもので、ロッシュ公使がそして小栗が慶喜に献策してきた案そのもの。
専門家である軍人が述べるとある種の磁性を帯びるようで勝も身を乗り出して聞いていた。
勝が傾聴したのは戦術面ではなく、デュブスケの日本語の巧みさに聞き惚れていたのである。
何よりも話す彼の眼は激しく燃えている。
一介の雇われ軍人としてではなく、一己の軍人としてこの戦いに出陣するぞというひたむきな思いを持って説くのである。
「しかしながら、我々は日本国を疲弊させる必要以上の戦いを強いるつもりは毛頭ありません。一当てでいいのです。ミカド軍に一撃を加えた後で東国の守りを固め、その後海陸強力な軍事力を背景に物申せば、敵は否応なしに和睦を申し入れてくることになりましょう。これをもってこそ、初めて国内の混乱を沈静化することができるのです。」
言い終わるやいなや、勝さん、勝さんと皆フランス訛りで呼びかけた。
勝もさすがに胸が一杯になってしまい返答に窮し、一晩考えさせて欲しいと伝えるのに精一杯だった。
シャノワンヌ初め顧問団はいかにも残念そうにその場を退席した。
勝はこの日の晩ロッシュ公使を訪ね、恭順の立場を改めて表明し、時勢を鑑みフランス軍事顧問団を解約させてもらいたい旨を伝えた。
そして翌日、勝はシャヌワンヌと会見し、やはり戦はしてはならない。これは幕議による決定であると話した。
シャヌワンヌが勝の軍事顧問団解約の願いを受け入れ慶応4226日に江戸から横浜に引き上げた。
立派に育てあげた伝習隊が活躍出来ず強硬論者のシャヌワヌは無念だったろう。
しかし、伝習生への信義からブリューネ中尉は9人のフランス人同士とともに榎本武揚の率いる旧幕府軍に参加。かつての生徒たちと行動を共にして9カ月にわたって仙台・箱館に戦い、五稜郭陥落直前にフランス軍艦に移って帰国した。いわゆる函館戦争だ。その頃デュブスケはフランス公使館付け通弁官になっておりブリューネとは手紙のやり取りをしていた。
しかし、ブリューネの榎本軍参加中、横浜ではフランス排斥が盛んで攘夷風潮の残存の犠牲となり、横浜弁天通りで公使館員のデュブスケが暴漢に襲われた。明治2319日夜のことだった。幸い軽傷で事なきをえた。

この頃は、茶会で出会った士族黒田平之丞の二女ハナと知り合い、見染めて事実上の結婚をしていたと思われる。

101815名からなる顧問団は使命を終え12名はフランスに向けて帰国した。その後シャノワンヌ大尉は陸軍大臣大将、ジョルダン大尉は少将、デシャルム中尉は少将、榎本軍に参加したブリューネ中尉は帰国後少将にそれぞれ昇進。榎本軍に参加したマルラン軍曹は神戸外人墓地に埋葬、同じく榎本軍に参加したビュッフィエ軍曹は横浜外人墓地に埋葬された。

デュブスケ中尉は公使館付け第1等通弁官として只一人残った。

1128日には、長女キャロリーン・マリーが横浜で出生。

1870年明治32月 大蔵少輔伊藤博文、大蔵官僚渋沢栄一から製糸業の専門家を紹介するように富岡製糸場の機械購入・技師招聘の相談を受け、横浜のガイゼンハイメルを通じて製糸技師ブリュナーを推薦した。ブリュナーはリヨンの絹業会で仕事をした後、横浜で日本から輸入する絹を検品する検査官の職にあった。



                 お雇い外国人


アルベールは明治3年920日には陸軍大尉に昇進し11月兵部省兵式顧問として正式にお雇い外国人になる。
このような地位についたデュブスケは、幕府のために働いたフランスは信用できないという印象の残滓を、その献身によって拭い去ることができたのである。
明治政府に貴重な個人的貢献を行っただけでなく、日本政府の要請に応じて日本がヨーロッパ先進国の水準に達するための方途に関し、フランスその他の西側諸国の軍事組織および軍略についていろいろな角度から考察した長大な報告書を日本語で作成し「ジブスケ」「仏国 治部輔」と署名している。
その報告(それは明治政府の指導者が西欧諸国の軍事制度について有する知識を大幅に補完するもの)の量に現れているだけでなく、彼の用いた言語にも示されている。「政府の命令と訓令を実行するためには、政府のためには水火も厭わないという軍人の力を造ることが必須である」と強調している。
1871年明治421日長男シャルル・エリーが東京で生まれる。


                 左院お雇い

111日左院雇いとして正式に明治政府に出仕した。
当時の月給は右大臣 岩倉具視と同額の月給600円だった。フランスの諸法律規則を翻訳し重要国策の諮問に応えて建議、顧問として活躍し「ジブスケ軍制建議」「万国陸軍取建之原則」など100以上の法律、軍事などのフランス資料を翻訳もし建議していた。

この建議の中で、明治陸軍の軍制づくりの基本的な資料と意見を提供した。
「ジブスケ軍制建議」と「万国陸軍取建之原則」の中で最も重要なのは、兵部卿=陸軍大臣の軍令・軍制の一元化つまり文民優位(シビリアンコントロール)の原則であった。
功績を認められ1872年明治53月レジヨン・ド・ヌール勲章 勲5等に叙せられる。

 L'ordre national de la légion d'honneur

この頃、第二次軍事顧問団長マリクリーが帰国してフランス陸軍大臣官房にいたシャノワンヌ宛ての手紙がある。

前略。 その手紙の中で西郷隆盛とは昨夜はじめて会い、駐日フランス公使チュレンヌとデュブスケと一緒に夕食を共にした。西郷は全く強健そのものの男で、背も高く、がっしりとした体格で、闘牛のような太い丈夫そうな首を持ち、ヘラクレスのような太い腕には火傷の跡か刀傷の跡、くっきりとした傷跡があります。
この男は薩摩藩の実力者で、この前の事件では渦中にいました。自分の首をかけた事件だったので、彼は一、二年の間、寺に隠棲する羽目になりましたが、やっと昨年になって自分の藩中で政府に勤められる者たちを集めて、ようやく復帰したのです。彼はいつでも、われわれのために動いてくれるようですし、その準備も出来ているようです。後略
これは幕末で幕府に加担したフランスに対する敵意があったが、今度はわれわれに指導を求めてきたという状況説明の手紙であった。

アルベールは1873年(明治66月から11月まで表向きは病気療養ということだが普仏戦争後のフランス兵制事情確認のため一時帰国した。
1115日明治政府法律顧問となる法学者ボアソナードと共にVolga号で横浜に戻った。

留守中、二女マリーが生まれるが生後まもなく911日死亡
横浜山手外人墓地に埋葬された。
明治7年(18741012日三女アンリエット・アリスが東京で生まれる。(後の田園調布修道院シスター)

明治8年(1875)左院が廃止され正院に戻る。

1875年 38


 左院時代のデュ・ブスケ

明治881日より31日までの旅行免状を取得し、休暇中のデュブスケは箱根温泉に家族と共に入浴。当時、箱根温泉は温泉療養の地としては、交通の便などを考慮すると最も東京に近く、政府高官などが訪ねている。
      
               






9月休暇を終えたデュブスケは職場復帰し外務省へ旅行免状を返却した。


明治9427日 日本政府より正式に婚姻を認められる。
田中ハナは日本国籍を除かれる。
デュブスケは外国人との結婚にあたり、仏陸軍大臣の承認が必要で正式に認められるまで当時の日本の婚姻法制とフランスの法制があり、実にさまざまな法的社会的な障害を乗り越えて結ばれた。(南山大学教授、名古屋大学名誉教授 大久保泰甫氏)


   


結婚許可証 
田中ハナ戸籍


79日元老院に雇い替えし外国憲法の翻訳に従事し憲法草案起草に寄与するだけではなく、条約改正交渉に関して助言、建議をしていた。給料(月600円)年限(3カ年)

明治10523日次男アルベール・ジョルジュが出生 西南の役の頃である。

1030日お雇い外国人として任期満了になりフランス公使館に戻り領事となる。
119日法学者フルベッキと共に明治天皇に謁見を賜る。
128日 勲4等旭日小授章を受ける。元老院より謝金400円の支給を受けた。



                        
Albert Charles

明治11年(1878)大久保利通が暗殺される。

明治12年(1879)灯台建設技師のフロラン兄弟が帰国時、長女キャロリーン、長男エリーをフランスで教育を受けさせるため、彼らに託し渡仏する。
キャロリーン10歳、エリー8歳であった。悲しみと不安もあっただろう。
フランス側で受け入れした人は誰だろう。アルベールの父グスタフは1874年に亡くなっているので、アルベールの兄弟の誰かだろう。調べても判らなかった。

明治14年(188111日三男シャルル・アルテュール、我が祖父が生まれた。