アルベールの晩年
しかし明治13年末ごろ「今や不幸にして不治の疾病に罹り垂死の厄に遭遇」という健康状態であった。
12月18日、元老院議官賞勲局副総裁 大給 恒、元老院幹事細川潤次郎の連名をもって太政大臣あてに「比歳特別ノ御評議オ以テ積年我政府ニ勤労セシ廉オ以テ何卒慰問ノ御沙汰被成下候様仕度」との建言があり、外務卿井上薫よりも「特別ニ宮内省ヨリ慰問トシテ金千円程度下賜相成候方可然」しと意見上答の結果、明治14年1月7日、閣議は政府より慰問金千円を贈ることに決定した。
しかし、外務大書記宮本小一より、ジュブスケ氏の身分が仏国官員であり、仏国政府の規則もあり受取り難く、また同氏の病状の性格、危篤の状況に鑑み、一旦右賜金返進の通知が内閣に提議された。
明治15年(1882)6月18日午前11時50分 アルベール 感冒をこじらせ麻布鳥居坂の自宅で死去。享年45歳だった。
葬儀は21日午前9時半築地天主堂(カトリック築地教会)で取り行われ、午後3時飯倉片町28番地を出棺し青山墓地に埋葬。出棺には親友イギリス外交官アーネスト・サトウ他3名が付き添った。
「陸軍鎮台兵一中隊の護衛にて青山の埋葬地に至り式の如く葬儀を終わりたり、葬送人は参議・外国公使をはじめ多人数の顕官紳士等にて実に盛なることなり、又元老院の副議長其他旧知の勅奉任官方より楽隊を供されたり。」と同月20日の「時事新報」記事にある。
6月23日、政府より遺族に対してお悔やみとして改めて金千円を贈与した。
青山墓地に国より埋葬され、明治21年6月元老院議官兼賞勲局副総裁大給 恒氏、元老院議官細川潤次郎氏によって墓標が建てられた。
仏人治部輔氏墓表
元老院議官兼賞勲局副総裁大給恒書・元老院議官細川潤次郎撰
「(上略)朝廷新たに左院を置く。乃ち君(デュ・ブスケをさす)を聘して委するに弁考索洋の務めを佐け、翻訳の事を執るを以てす。(中略)憶うに朝政一新、外交大いに開け、官を置き法を設けるに方り、他国の制を講じ以て参酌に供せざる可からず。 乃ち余輩の如きは就いて君に質す。君、酬対審詳、伝訳を煩とせず。最も要旨を領略するに便なり。
その事体稍重きものは、諸の本国諸書を考え口約してこれを筆録せしむ。意義明白、尋常の翻訳書の比に非ず。其の巳に編を成すもの、一百十六種の多きを有するに至る。盛んなると謂う可し。
(中略)君の和訳に精通するが如き、其の力習の労、亦た想い見る可し。已に又聞く、我、条約を改正するの議有るに方り、君頗る我邦の為に籌画する所有りと云う。
(下略) (原漢文)
当時、ハナより親交のあった人々に宛てられた死去および葬儀通知状(明治15・6・19消印)を掲げておく。本状の差出人は「マリー・ジュブスケ」とあり,宛先の猪子清は旧富岡藩大参事、当時参事院議官補である。
本書状はタテ書きの本文と宛先部分を半折し、さらにそれを三つに折って宛先部分のみの小封筒の形にして一銭切手を添付・郵送したものである。
「ジュブスケ義昨十八日午前第十一時五十分死去致シ候ニ付此段御知ラセ申上 候 但明後二十一日午前第九時半築地天主堂ニ於テ読経同午後第三時飯倉片町二八番地ヨリ出棺青山墓地ヘ埋葬致シ候事 六月一九日 マリー、ジュブスケ」と記されている。
治部輔の墓
青山外人墓地
マリーが寄贈した鐘 築地カトリック教会
ジブスケ袴
対日外交部文書の上において「仏国 治部輔」と記し、デュブスケがデザインしたジブスケ袴(タッツケ袴)と呼ばれる側線入りのフランス式軍袴を穿いていた。ジブスケ袴は有名な存在になっていた。
「兵部大輔大村益次郎は鳥居坂に通い、ジブスケから軍服のデザインを学んでいる。日本の軍服は大礼服から一兵卒にいたるまで、彼の提示したデザインが基礎となった。(スーツの法則 中島渉著より)」
武器と防具 幕末編(新紀元社)より
ジブスケ袴 image by Emest illustration
余談
「文芸春秋」第15巻第6号(昭和12年) 料理雑記 三田村鳶魚の「旧幕人の夜話」より
一夜武内桂翁をお尋ねして、いろいろと昔話に花が咲いた時、翁の先代孫介氏の手録された料理雑記を見せられました。是はホントに珍書と申してよいでせう。
明治2年12月 治部助、此人は仏国の士官デューブスケ、幕府のお雇いから新政府に継続して築地におりました。そこでの御馳走
コンニャク 酒 オムレット(鶏卵焼)鱸炙、パン、ヴァン(葡萄酒)ビフ(焼牛)イグ(イチジク)バッテ(雉の肉菓子)菓子(ジャガタライモ、カステイラの粉、干しブドウ入り)
註解入りで書いてある。
翌、3年2月27日のところにも
舶来イワシ、オムレット ビフテキパタート ハンヴァン シャンパン
武内孫介というのは紀州徳川家臣下で御作事奉行、デュブスケの媒人をするなど外人に親しかった。
彼はお雇い外国武官などと接触することが多く、明治4年11月より左院雇いとなったデュブスケの日本人書記として孫介が私的に雇われていた。
この記事によってデュブスケの媒酌人を始めて知った。
デュブスケは明治7年11月元老院時代より東京府第2大区7小区飯倉片町2丁目25番地平山成信方を住所としている。おそらく遡って左院時代から居留地外居住として平山成信方を住所としていたと思われる。
平山成信は明治3年静岡藩の留学生として横浜に赴き専心仏語を学習し洋行の機会を狙っていた。
明治4年に左院14出仕という役名でデュブスケの専属書記となる。明治6年渡欧し明治7年帰国。
明治11年仏国公使館勤務となるまで国内におり、その間結婚もしており居住地を平山方としたデュブスケとの関係は深かったと思われる。
我々の本籍地は、私が子供の頃まで東京都港区麻布飯倉片町になっていたが、現在は港区六本木5丁目に地名変更されている。
平山家跡を購入したか番地が違うので近くを新たに購入したと思われる。
Marie Anna Hana マリー・ジブスケ
(1850.7.7~1930.8.19)
明治2年、アルベールは茶会で出会った士族黒田平之丞の二女ハナと知り合い、見染めて事実上の結婚をしていたと思われる。
当時の時代背景から武士の娘でなく母方の伯父の医師田中熊次郎の養女となり田中ハナと名乗った。アルベール32歳、ハナ26歳
明治9年4月27日にフランス、日本政府から正式に結婚を認められたと同時にカトリックの洗礼を受けマリー・アンナと名乗った。
6人の子供を授かり、アルベールの死後もシーボルトの子供や孫たちとの交流もあり、80歳の生涯を終えた。
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