アルベール・シャルル・デュブスケの子供と孫
長女 キャロリーン (Caroline Marie
1868.11.26-1957.4.9)
10歳で弟のエリーと一緒に渡仏し教育を受け、24歳で歯科医ステイベル(Théophile Joseph Léger Steibel)と結婚し4人の子供を授かり、1957年パリで死去した。88歳
Caroline Marie
アルベールの父の妹 Esther du Bousquetが所持していた祈祷書を渡仏間も無いキャロリーンに与えた。生涯大切にしていた。
私が渡仏時、この祈祷書をRolandeから頂いた。
キャロリーンの長男(LudovieGastonThéophileSteibel)美術製本職人の娘ローランドは宝石彫師(Alphonse Payonne)と結婚
Rolande(1927.6.1-
2015.2.19)
長女Sylvieデザイナー (1955.6.9- )
次男Franck Payonne
劇団俳優(1961.6.24-2017.4.11)
現存している旧ステイベル家
キャロリーン、マルガリット、クリスティーヌが眠るステイベル家の墓
キャロリーンの次女マルガリット
(Alexandrine Marguerite Bartoli)バルトーリ夫人
Marguerite(1897.11.17-1989.3.1)
長女クリスティーヌ(Christinne1938.4.26-1965.4.4)
1871年明治4年2月1日長男シャルル・エリー(Chales
Elie)が東京で生まれる。フランスで教育を受けるため8歳の時、姉キャロリーンと共に渡仏する。
1888年7月19日長男エリーはパリで病死した。享年17歳であった。
祖父の眠るモンパルナスの墓に埋葬された。
Cimetiére Montparnasse(9eme.Division 12Sud 34Est)
二女マリー(Marie)が1873年生まれるが生後まもなく死亡(9.11)
横浜山手外人墓地に埋葬された。
Marieの墓
明治7年(1874)10月12日三女アリス(Henriette
Alice)が東京で生まれる。
1875年7月1日洗礼を受けた。絵画の勉強のため渡仏したが、1899年パリのサンモール修道会(la congregation de
Saint-Maur)の本院に入会、マダム サンタルベルとして1902年東京の修道院に戻り、1938年から静岡の修道院、1946年より田園調布修道院に赴任 雙葉会に従事し絵画、ピアノ、フランス語を教えていた。
1955年9月23日帰天し府中カトリックSt.Maur修道会の墓地に埋葬された。
Henriette
Alice 1901
PARIS
Sœur Saint-Albert 1944 田園調布修道院
次男 アルベール・ジョルジュ (Albert-Georges )
兵役に就くと渡仏、再来日後、明治38年9月10日より同39年3月3日まで神戸高等商業学校でフランス語の講師をしていた記録がある。その後英国スペイン銀行勤務し、1945年天津で死亡。68歳
同名の長男はサンテ刑務所行政官吏長で1983年死亡
マルセイユのGéraldの祖父にあたる。
Albert-Georges (1877.3.23-1945.7.27)
Albert-Georges (1903.8.2-1983.2.17)
René Jean-Claud Gérald
2017年6月13日 ジェラール マルセイユで亡くなる。
彼とは長年手紙のやり取りをしていた。
フランスでの一族の調査は彼が熱心に調べていた。
我がdu Bousquet一族の系図の作成も彼無しでは完成しなかった。
マルセイユに行った時、少し健康を害していたが会えて良かった。
三男 シャルル (Charles Arthur 1880.12.31-1918.11.27)
1907年(明治40年)27歳の時、「治部輔 治信」で帰化願い
その後、林 治信に改名
1910年(明治43年)小幡藩華族松平忠禎の長女 金子と結婚
Sasako
Masanobu
他の兄姉が皆渡仏し、母のハナはシャルルだけは手放さなかった。
シャルルは1907年帰化し林 治信と名乗った。
因みにフランス語でbousquetに似たbosquetが小さな林や木立を表しており、そこから引用したと思われるが、林 正十郎という人物が幕末にフランス語を学び幕府がフランス軍事顧問団を招くと規則書の翻訳を任され、戊辰戦争後、尾張藩の保護の下、迎曦塾を開設し元軍事顧問団デュブスケを教師として雇って子弟関係になり仲良くしていたとも聞いており、そこからも林という姓にしたと思う。
シャルルは、横浜で海星商会を経営し貨物船2隻を所有していた。林式集魚機を発明し特許を得た。
その後、陸軍砲工学校や第一高等学校でフランス語講師をし、日仏会話やフランス語独修書を編纂、バイオリンも弾き多才な人であった。
さぞかし渡仏したかったと思われるが、感冒により1918年38歳の若さで亡くなった。
若しも健康であったならば、フランスに行く機会もあり兄姉の家族、親戚にも会い、また違った方向に行っていたかも知れない。
シャルル治信の著書
「実用日仏会話」1915
「初等仏蘭西語独修書」1918
訃報
治信墓(青山墓地)
あとがき
幕末・明治初期の日本はフランスから多くを学んだ。
鳥羽・伏見の戦いの後、明治新政府は東北動乱と財政上の関係からフランス軍事教官団の廃止を決定、慶応4年7月28日教官団は解散帰国するがデュブスケのみはフランス公使館付通弁官(第1等通訳官)として在留し、明治初年の日仏外交史上重要な役割を演ずる。来日以来わずか2年足らずで日本語をよくし、単に軍人としてのみならず、外交官として同時に活躍できる才識の持主であった。
兵部省の兵式顧問となり、その後フランス公使館を離れ左院のお雇い外国人として正式に日本政府に出仕した。
29歳で来日し三男三女の子をもうけ、明治15年まで新生日本のために尽力した。
明治4年、普仏戦争でフランスが敗北したが、太政官布告で軍制を陸軍はフランス式、海軍はイギリス式にした。
デュブスケが亡くなった翌年、明治16年日本陸軍はドイツ式を採用し参謀少佐メッケルを陸軍大学校教官として招聘した。
日清、日露の両戦争に勝利したメッケルの功績は大きいが、やがて国際的視点の欠如した軍部が独走し日華事変、大東亜戦争までその影響は続いた。
明治33年の「偕行社記事」には、次のように書かれている。
「日本軍は編成と訓練に関しては今日ドイツ軍の完全なる模型なり。しかしこの日本陸軍について当然名誉を受くべきは、ドイツよりむしろフランスであることを忘れるべからず。」
軍国主義のドイツ式を採用していなかったら、当時の陸軍、日本も違う方向を維持し歴史も変わっていたに違いない。
つまり、それはデュブスケが建議した文民優位(シビリアンコントロール)の原則に他ならない。
おわりに
アルベール・シャルル・デュブスケの活動を調査するにあたって、
大阪大学名誉教授、文学博士 梅渓 昇氏はじめ日仏会館図書室司書 清水裕子氏の紹介で横浜国立大学名誉教授 日仏文化交流史の研究家 西堀 昭氏に直接お会いすることが出来て貴重な資料や多くの文献を頂き、名古屋大学名誉教授 南山大学外国学部教授 法制史家の大久保泰甫氏からも資料初めアドバイスを頂き、曾孫として知る限りのことをまとめ上げる事が出来て心から感謝致します。
梅渓 昇先生(92才)宅訪問(東京 小金井市)( le 27 Oct.2013 )
2016年2月18日 肺炎のため亡くなられた。95歳
西堀 昭先生宅訪問(横浜)( le 18 Mai 2011 )
参考文献
陸軍創設史 篠原宏 リブロート出版
幕末・明治日仏関係史 リチャード・シムズ著 矢田部厚彦訳 ミネルヴァ書房
流域 ある日本人妻と娘 梅渓昇著 青山社
お雇い外国人の研究 上・下 梅渓昇著 青史出版
フランス科学技術導入と富岡製糸場 西堀 昭著
維新とフランス 西野嘉章+クリスチャン・ポラック 東京大学出版会
その他、多くの文献から引用させて頂きました。